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当麻曼荼羅と百万遍念仏講

1、数百年前の当麻曼荼羅

山内黒沢では数百年前の時宗(推定)六字名号の掛軸とともに、当麻曼荼羅図・阿弥陀如来坐像等が保存され、それらを参拝して行う百万遍念仏講も連綿と伝承されている。これらは高橋春雄家で代々継承していた。本来寺院で所有・使用する仏教用具の一式が一般の民家に数百年来保存され、仏間で信仰行事に使われてきた事例は特異であり、仏教民俗に関わる有用資料として評価される(横手市指定有形民俗文化財)。ちなみに、同家は余儀ない事情により平成18年、所蔵品のすべてを地区に移譲している。

高橋家に伝わった仏画・仏像・仏具等は、いずれも未鑑定のため年代不詳だが、ただ鉦鼓1台のみその紀年が明瞭である。「時永正十二年乙亥霜月上旬」と、鮮明な陰刻銘が認められるからだ。この永正12年(1515)という紀年銘は、他の仏具等の制作年をも類推させる。ともあれ、総数20点に及ぶ仏画・仏具群のうち、とりわけ注目に値するものは曼荼羅だ。いわゆる中将姫伝説にちなむ当麻寺(奈良県)の原本は、建保年間(1213~19)や文亀年間(1501~04)に、仏師により転写・模作され相当数流布したといわれる。当地に伝わった当麻曼荼羅図もその類である。

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図様中心の聖像

菅江真澄も『雪の出羽路』『月の出羽路』の両著で詳しく述べている。これに「さばかり絹のまったき、継たてしものならず」とあるように、間違いなく絹本着色の優品である。規格は「長六尺、幅四尺五寸」と記されている。確かに長さ(縦)は191.0cmだが、惜しむらくは補修により、横幅が改変(89.8cm)されている。また、「仏菩薩の面想、七重欄楯、七重羅網、七重行樹なとの筆すさび世のつねならず」と、真澄は賛辞を呈しているが、原本の当麻本と比較(写真照合)すれば、絵柄の構成や彩色などに簡略化が見られる。しかし、阿弥陀如来等の尊像の描き方はきわめて精妙である。

曼荼羅等はどのようにして高橋家に伝わったのだろうか。同家所蔵『檀場曼荼羅縁起』によれば、持正と称する老僧から譲渡されている。これと『雪の出羽路』『月の出羽路』の記述を重ね合わせれば、老僧(持正)は龍泉寺の住職を退き隠居の身となって時宗寺に移り、その後崇拝者の功徳により上黒沢に下山し僧堂を構えて余生を送り、その死に臨み曼荼羅等の所有物を崇拝者に託したことになる。上記の龍泉寺とは応永23年(1416)開基の寺院であり、現在も雄勝郡東成瀬村に存続しているが、時宗寺と当地の僧堂はとうの昔に廃され詳らかでない。

2、仏画の前で営む念仏講

かつて疫病送り・辻払い・虫送り等のため、民衆がこぞって祈りを込めた百万遍念仏講――今日、こうした仏教民俗は大方廃れたとはいえ、今なお伝承している事例が無いでもない。山内南郷に約200年前から伝わる百万遍は、三ツ屋地区の上から順に中・下と3か所の路上で、念仏を唱えながら計100回数珠繰りをする。古来、無病息災を願い旧暦1月17日に行っていたが、現在は新暦1月17日かそれに近い休日に行う。

他方、山内黒沢で数百年にわたり伝承されてきた百万遍は、当麻曼荼羅(横手市指定有形民俗文化財)を所蔵する高橋春雄家の仏間で営まれていたが、曼荼羅堂建立の平成11年以降堂内で行われている。例日は2月15日、今も旧暦のままだ。ここでは、当日開帳の曼荼羅の前で極楽往生を願い、大念珠を33回繰りながら念仏を唱える。古くは『中将姫和讃』の経文も唱和した。

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百万遍念仏講

百万遍は元来、元弘元(1331)年に疫病が流行した際、知恩寺の8世・空円が7日間にわたり、百万回に達する念仏を修した行法に始まる。その効験あらたかだったため、全国の僧俗に普及したという。ただ、民間では個人でなく講や共同体を基盤として広まり、各地各様に伝承されたからその形態も多様になった。前記・山内南郷の場合は疫病神送りの習俗との混合が見られ、山内黒沢の事例には寺院で営む行法の影響が窺われる。