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黒沢城址

秋田県横手市山内黒沢字石田94

1、最前線の要塞

戦雲の垂れこめる戦国の世。戦国大名・小野寺氏の一支城で隣国(和賀氏)に対する境目城(さかいめのしろ)だった黒沢城は、黒沢・南郷・筏にまたがる重畳(ちょうじょう)した山々の北端で、今の国道107号と県道南郷黒沢線が交差する地点の直上に占地していた。尾根の狭長な突端(とったん)(標高280m、比高60m)は、東の水上沢、西の里ノ沢、北の黒沢川と、天然の総堀となる三筋の水流によって囲まれている。その頂上(地元で城ノ平(たい)と呼んでいる)と山腹に、主郭(しゅかく)・腰郭(こしくるわ)などの複地性平坦面が5面認められる。

まず、山頂の主郭は東西約40m、南北70m弱程度の構えだ。最前線の要塞(ようさい)の機能に徹した小規模な城郭だったと思われる。その東西両端には、空濠(からぼり)(幅約3m、深さ約1m)各1条と、これにともなう土塁が築かれている。そして、主郭の南に堀切(ほりきり)(幅約6m、深さ約3m)があり、さらに南に続く尾根との間を切断しているが、これについては昭和60(1985)年に、山内村郷土史編纂委員会で発掘調査を行い確認した。また、主郭の北西に物見(ものみ)台と伝えられる峰がある。

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黒沢城址の遠望

なお、主郭の真下にある緩斜面(東西約45m、南北約50m)と、東の中腹にある緩斜面(東西約20m、南北約60m)は、登り道の中間にあり水の手(沢)に近接していることから、腰郭と推定された(秋田県教育委員会『秋田県の中世城館』)。高齢者の口承によれば、城ノ平の山裾(やますそ)(今の本田)は、城主の居館(根小屋(ねごや))と寺屋敷、郎党の家屋・馬小屋が軒を連ね、「町コだった」といわれる。腐食した槍先、陶製の食器片が出土したともいわれる。しかし、根小屋の場所は、西約800mの平坦地(元屋敷)だという口承もあり、詳(つまび)らかでない。

2、築城と城主

黒沢城の築城は天文(1532~55)年間と思われる。その頃、かねて西進を謀(はか)っていた和賀氏は、小野寺氏との境上を窺(うかが)い、黒沢・南郷をしばしば侵していた。事実、和賀義忠勢と小野寺輝道勢は、一再ならず合戦に及んでいる。それで、小野寺氏は前線に当たる黒沢峠の付近に、和賀氏への押さえ(境目城)を築き、敵陣の向背を偵察し警備したのである。戸部正直『奥羽永慶軍記』に「兼ねて和賀押さえとして(略)」とある。その黒沢城は横手城直轄の支城で、城主に旗本の黒沢長門守(ながとのかみ)が命ぜられ、一族郎党とともに駐在していた。

城主・黒沢長門守は、天文21(1552)年の横手平城の乱、天正元(1573)年頃の和賀・山北合戦、同10(1582)年頃の山北・由利合戦、文禄4(1595)年の皆瀬川畔合戦、同5(1596)年の大島原合戦などに、それぞれ参陣している。黒沢長門守の一族では、黒沢和泉守(いずみのかみ)、同 道家、同 藤吉、同 志摩(しま)などが、軍記に名を残している。右の和泉守は城主・長門守の実弟で兄を常に補佐し、文禄4(1595)年の岩崎合戦で討死した勇将だ。かつて山内大松川字福万にあった旧家・黒沢勘十郎家の先祖である。

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黒沢城の縄張

黒沢城は慶長6(1601)年か、その翌年頃に破却されたようだ。前掲『奥羽永慶軍記』に「此外(このほか)山北にて(略)南部倉・馬倉・川連・稲庭・三梨・黒沢(略)等数十ヶ城破却」とある。聞き取り調査の際、「黒沢城を壊した時、軍資金やら財宝やら甕(かめ)に入れて、黒沢のどこか3か所に埋蔵した、と聞き覚えている」旨、高齢者が語ったのは、講談もどきの作り話だったのだろうか。なお、黒沢では小野寺氏ゆかりの熊野山神社が存続している。元応元(1319)年、領主から社領30石を付け置かれ、社堂を建立したといわれる古社だ。

3、黒沢城の逸材

城主・黒沢長門守の嗣子(しし)(女婿(じょせい))は黒沢道家、通称・甚兵衛(じんべい)である。甚兵衛は早年において小野寺義道に近侍し、股肱(ここう)と頼む臣となり重く用いられていた。当時の家臣帳に「若家老 黒沢甚兵衛」とある。天正14(1586)年には有屋峠合戦の軍功により、黒川(今の横手市黒川)にも所領と城館を与えられた。しかし、小野寺義道の衰運は既に如何(いかん)ともしがたく、やがて改易(かいえき)・配流という最悪の結果を招く。甚兵衛は失意に打ちひしがれた主君・義道を護衛し、流刑地・石見(いわみ)国津和野(今の島根県)まで同行した。

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黒沢城址の発掘状況

やがて慶長7(1602)年、新領主・佐竹義宣(よしのぶ)が入部する。義宣は国勢の把握と年貢の確保のため、翌年と同19(1614)年、領内全域にわたる総検地(そうけんち)を実施した。指揮を命じられたのは渋江政光だ。政光はその下役に黒沢甚兵衛(以下、道家と記す)を登用した。小野寺家旧臣の道家は「地方(じかた)巧者」で、検地・用水の実務に堪能(たんのう)だったからだ。彼らはいずれも召し抱えられて間もない新参者だったが、鋭敏な問題意識、緻密な現地調査、優れた行政実務、効果的な施策の立案の才に恵まれ、藩政の確立を急ぐ藩主・義宣の渇望(かつぼう)していた人材だった。

また、藩主はとりわけ産業振興に采配(さいはい)を振った。新田開発・用水路開設はもとより、米代川流域の木山、大葛・檜木内・院内等の鉱山の開発を、やはり新参の能吏(のうり)に託して実施した。院内銀山奉行・惣山(そうやま)奉行として、鉱山管理を任されたのは梅津政景だ。政景は実務担当者に道家らを抜擢(ばってき)して、徴税(ちょうぜい)と米・鉛の専売を行わせ、莫大(ばくだい)な益金を藩庫に納付させている。政景の知遇を得た道家の活躍は、有名な『梅津政景日記』に詳しい。政光と梅津兄弟(憲忠・政景)は、やがて順次家老に登用される。道家も知行(ちぎょう)高500石の重臣に任じられた。