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”国取り合戦”と古戦場

1、戦国時代の”国取り合戦”

日本史では15世紀半ば以降の約100年間を戦国時代と呼ぶ。全国各地に群雄が割拠して勢力を張り、毎年毎年国中のどこかで、領地を取ったり取られたりしていた。特に国境で隣合わせた領主が戦うと、勝敗のいかんによって、当然国境そのものが変わってしまう。それが後に藩境・県境となった例が多いから、今にして思えば案外重大事だったとも言える。

古来陸奥・出羽両国の境に接していた山内地域でも、およそ440年前(天正元=1573年)頃、陸奥の和賀氏と出羽の小野寺氏が国境を争っている。和賀義忠は出羽小野寺領への侵入を謀って国境を窺い、小野寺輝道も備えを固めて角逐したあげく、数年間にわたって山内黒沢や山内南郷で干戈を交えた。この時の合戦は結局引き分けで和睦したようだが、もしどちらかが勝っていれば領境が動き、現在の県境も東か西にズレていただろう。

2、和賀・山北合戦の史料

440年ほど前の合戦は和賀・山北合戦と呼ばれている。山北とは雄勝・平鹿・仙北の3郡の総称だが、それを束ねていた小野寺氏をも意味していた。山内南郷での合戦を伝える史料は『奥羽永慶軍記』(戸部正直著、元禄11=1698年著述)だ。同書に「奥州多田薩摩守義忠、山北と相戦ふ事度々」とあるが、再三にわたった過程は略され、最後に天正元(1573)年頃、雄勝川の藤倉で激しく切り合った戦況だけ書かれている。

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黒沢古戦場の遠望

『奥羽永慶軍記』のあらましは次のとおりである。

両陣とも鬨の声をあげて矢軍を始めるやいなや、和賀方の筒井縫殿助がいきなり飛び出して矢を放ち、山北陣中の笹森囚獄・六郎父子を絶命させた。そこで、山北方の大将・黒沢長門守の指揮があって、山北勢百余騎が一斉に刀を抜き攻めかかった。勝負は一進一退を繰り返し、斃れた者の体が谷を埋めた。日も暮れてその日の戦闘を停止した後、和賀陣営では内談をし「数年もの間、毎回勝負を付けられないから、和睦しよう」と一決した。その旨を山北方に伝えたところ、それは山北側でも願うところだったので、双方の捕虜を交換して和戦した。

3、和賀・山北合戦の古戦場

上掲『奥羽永慶軍記』に記された戦闘の戦場は山内南郷字中雄勝川だ。和賀義忠勢と小野寺輝道勢はこの戦闘だけでなく、数年にわたって何回も戦ったので、山内南郷に隣接する山内黒沢も戦場になっている。その古戦場は山内黒沢字上桑谷地、同字上黒沢野である。同地には和賀氏との境目城(黒沢城と呼ぶ)の跡も残っている(『山内村史』『山内歴史・文化便覧』参照)。ただ、山内黒沢には確たる史料が伝わらず、断片的な口承が残っているだけである。

聞き取り調査で高齢者数名から収集した口碑は次のとおり。

  • ①ナンブの殿様(和賀氏)はケジだ(けしからぬ)人で、秋田(小野寺氏)の境を押してきた。
  • ②天下ノ沢と天下森はイクサバ(戦場)だ。
  • ③天下森の麓で行われた合戦で、ナンブの侍たちが多数討死したので、刈上げの節句過ぎ亡霊が出たものだ。
  • ④檀度越の田から刀や槍が出た。

上の口承のうち、②天下ノ沢については、一向に分らない。天下森の麓(檀度越ともいう)は、上黒沢野・上桑谷地・下桑谷地(南東に約900m、北東に約350m)にまたがる、狭長な低平地(現況は水田)だ。