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”黄金の道”秀衡街道

1、秀衡街道の史料

秀衡街道とは陸奥国の平泉と出羽国の横手を結んだ古代道路。

全長約80㎞のうち、国境(今の岩手・秋田県境付近、つまり岩手県和賀郡西和賀町野々宿~同町巣郷~秋田県横手市山内黒沢)付近については、史料に明記されている。

主な史料は『澤内風土記』(高橋子績著、1763年稿了)と『南部邦内郷村志』(大巻秀詮著、1789~1801年頃稿了)。『南部邦内郷村志』には「巣郷有古往来道、名秀衡街道。最容易也、然甚迂遠。故後世開白木岑道云」とある。

2、秀衡街道の推移

秀衡街道の開設は11世紀末と推定される。奥州藤原氏初代・清衡は後三年合戦(1083~87)に勝利して東北地方北部を席捲すると、その居館を豊田から平泉に移すとともに、横手の大鳥井柵を復旧し清原氏旧領の掌握に努めたから、その頃平泉・横手間の交通路も整備されたものと考えられる。

奥州藤原氏第3代・秀衡は嘉応2(1170)年に鎮守府将軍に就く。陸奥守を拝命したのは養和元(1181)年である。その頃(12世紀後半)が秀衡街道の最盛期と思われる。

(注)秀衡街道という道路名は、後世の平和街道(明治15年開通)と並んで、結構味わいのある呼称だ。いつ頃からどんな理由でそう呼ばれたかは不詳。

秀衡街道の通行は14世紀半ばも盛んだったが、17世紀の頃から次第に衰微したと伝えられる。

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旧秀衡街道の県境付近

3、秀衡街道の経路

全線の経路は平泉~北上~西和賀~横手(仙人峠・檜峠・黒沢峠を経由)。80㎞もの長大な道筋のうち、岩沢(北上市和賀町)・筏(横手市山内)間は、実地調査によりほぼ確実。

秀衡街道の東と西で祀られてきた守護神は、ルートを裏付ける有力な傍証となっている。東の仙人権現社(1151年に藤原秀衡により創建され、現在は久那斗神社と呼ばれている)は仙人峠に鎮座し、西の仙人権現社(1325年に東の仙人権現社の祭神を分祀、現在の神社名は筏隊山神社)は山内筏に鎮まっている。

(注)東側の守護神(久那斗神社)の里宮境内(多聞院伊澤家)に、奥州藤原氏のシンボル「中尊寺ハス」が株分け(2002年)され、その後(2010年)西の守護神(筏隊山神社)にも分与された。

4、秀衡街道の特徴

古代道路の好例。陸奥・出羽両国を結ぶ横断道路の一つ。

地元に”黄金の道”という口承が残っている。言うまでもなく、平泉の仏教文化を支えていた奥州金は、奥羽山脈各地からも多量に産出された。そうした産金地は西和賀や山内にも何か所かあった。鷲之巣金山(秀衡堀)、武道沢金山、大台金山等々である。そこで採取した砂金を平泉へ運んで行く道路ができて、この地域では秀衡街道と呼ばれていたというのである。

『沢内風土記』には「巡国の往還か」とあり、それは行政上の連絡路や軍用路を指している。奥州藤原氏の時代に行政・軍事の中心が平泉に移ると、奥御舘政庁から関根柵(横手)への通信・連絡は、平泉―北上―横手(つまり秀衡街道)の方が便利になる。秀衡街道は「巡国の往還」という役割も果たしたのだろう。

秀衡街道は「容易だが迂遠な道」だと、『南部邦内郷村志』に書かれている。これは路線全体を説明したのではなく、国境周辺の状態を述べたものだ。要するに、秀衡街道の出羽側(山内部分)は、南郷・筏などの平坦地を通り歩きやすいが、遠回りの経路だと指摘している。そのため、迂遠な秀衡街道は後代になって衰微して、短絡化した新道(南部街道)が隆盛する。

5、秀衡街道の影響

平時は日常的な往来や交流をしやすく、国境付近の村々一帯が境界にとらわれない共通の生活圏となり、緊密な通婚関係・善隣関係が営まれた。通婚関係は親戚同士ということだから、馬草・薪木・食糧などに困った時、有無相通じてきたエピソードが多い。その点、秀衡街道沿道の村々は北部の鹿角・比内地域と異なる。

旅人のみならず僧侶も往来し、仏教伝播の経路の一つだった。事実、仏教諸宗の多くは鎌倉時代以降、陸奥から出羽に入ってきている。横手市内の約20か寺も、往時の秀衡街道を通って、現在地に到達している。また、秀衡街道沿いの村々から登る三界山に陸奥国有数の仏教道場・時宗寺があって、巡錫の僧侶が多数修行したと伝えられるが、その中の一人の老僧は麓村(山内黒沢)に下山して当麻曼荼羅図を授けている。

半面、戦時においては行軍しやすいため、沿道の人々が戦乱に巻き込まれた。兵馬を動かし行軍しやすい道路筋で、ことに西和賀と山内のような境界の地――古来の国境であり、戦国時代に和賀氏・小野寺氏の境界、江戸時代にも南部・佐竹両藩の境口だった場所には、時として戦雲が垂れ込めた。必ずしも詳らかではないが、ここでは国境の西側が陸奥の南部三郎によって制圧(長禄2=1458年)されたことがあり、その後(寛正6=1465年)出羽の小野寺泰道が奪還したと伝えられる。さらに百余年後、この国境付近で数年も繰り返された和賀・小野寺両氏の攻防戦は、『奥羽永慶軍記』(戸部正直著、元禄11=1698年著述)に詳しい。