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陸奥・出羽両国の”国ざかい”

1、古来の峠と”国ざかい”

黒沢峠(東経140度13分、北緯39度16分)は、古くから陸奥・出羽両国の国境の指標とされてきた。無論、陸奥国・出羽国の間の境上にあり、今は岩手・秋田両県の県境である。あまりよく知られていないこの峠に関する有用な資料としては、吉田東伍著『増補・大日本地名辞書』(1906年刊行)を挙げられる。同書に「松川より一里半、国郡界にあたり(略)嶺東二里にして川尻駅に達す。分水界、標高三百五十米突」とある。これは明治の泰斗の著作で権威のある地名辞書だが、黒沢峠に関する限り他の峠との混同が若干見られる。

昔の国境は律令に基づく国・郡・里制度の施行によって生じた。それは1200年ほど前――坂上田村麻呂による東北地方征討の成功(802年、アテルイとモレが降服)により、東北で8世紀末から長らく続いていた律令国家への抵抗・反乱がほぼ終息した頃、日本全体で実施された。つまり、平安時代前期に全土を66国と2島に区画(824年)し、国を数郡に分け、郡を2~20里、里を50戸で組織した。この時に陸奥・出羽両国の国境も画定された。

2、”国ざかい”での交流

境目では隣接地との隔絶と交流という両面が見られ、とりわけ重要な交流は交通によってもたらされる。その点ここの国境では、いつの時代にも交通が確保され、奥羽山脈の両側を繋いできた。その最初の道路は秀衡街道である。秀衡街道については後記(”黄金の道”秀衡街道)を御参照願いたい。

秀衡街道以後の交通は次のとおり。

①南部街道

南部・佐竹両藩の脇街道として整備された近世道路(17世紀頃~)。

本道は盛岡~沢内新町~越中畑~小松川~横手(山伏峠・白木峠を経由)。北上から越中畑に来る道は脇道扱いだった。

②平和街道

鉱山開発等を図った近代道路(初め仮設県道、1882年~)。

経路は北上~川尻~横手。全線開通は明治15(1882)年、同年10月27日開通式を挙行(於・巣郷、山田顕義内務卿臨席)

県道黒沢尻・横手線(大正8年昇格)

2級国道大船渡・本荘線(昭和28年昇格)

一般国道107号(昭和40年改称)

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旧平和街道の田代沢口付近

③秋田自動車道

湯田・横手間の開通は平成7年、全線開通は平成9年。

④横黒線

全線開通は大正13年

北上線(線区名改称は昭和41年)。

なお、西和賀(陸奥国)と山内(出羽国)の人たちは、国境を越えて善隣友好の伝統を守った。それは戊辰戦争(慶応3=1868年)時の佳話からも窺われる。戊辰戦争の際、国境付近に南部軍の将兵1500人が陣取ったのに、佐竹藩(横手城)の武士は約20人に過ぎず、山内の人たちは山野に隠れ潜んだ。やがて、横手城の陥落により小松川まで進攻した南部軍は、「飢饉の時助けて貰った恩があるから、山内の人たちを助けていただきたい」という西和賀の農民たちの嘆願を受け入れ、山内の村人に危害を加えなかったと語り伝えられる。